なぜイギリスはユーロに加盟しないのか〜/国際通貨としての円の発足...

外為ディーラーはテクニカル分析を利用しない?

外為ディーリング・ルームに在籍している人のうち、テクニカル分析を投資判断の1つとして利用しているケースはあっても、テクニカル分析を唯一の投資判断基準としている人はほとんどいないそうです。

 

ただし、金融市場には、短期金融市場、株式市場、債券市場、外国為替市場、商品先物市場の5つの市場がありますが、このうち商品先物市場には運用部署にテクニカル分析を駆使する人が大勢いるようです。

 

すなわち、短期金融市場のように国のお膝元にあったり、株式や債券のように適正価格算出モデルのロジックが確立されていたり、外国為替のように銀行という堅い会社で扱われていたりする市場では、テクニカル分析はあまり支持を得ていないようなのですが、反対に、商品先物という主として季節要因や需給、投機に左右される市場では、テクニカル分析に頼らざるを得ない背景があるようです。

 

実際に、テクニカル分析というのは、商品先物市場を中心に発展してきたことから考えるとそのとおりなのかもしれません。

商品先物系FX会社はテクニカル分析に偏りがち

FX会社は次のように分けられます。

 

■外為取引専門業者 ■商品先物系 ■銀行系
■証券会社系

 

前述したような影響からか、商品先物系FX会社が開催するセミナーやレポートは、テクニカル分析に偏りが見られるようです。

 

◆ダウ理論とは?
世界の金融市場において、現在テクニカル分析として利用されているのは、ダウ理論、あるいはそこから派生したものが圧倒的に多いです。

 

ダウ理論というのは、ダウ・ジョーンズ社※の創設者であるチャールズ・ダウ氏が、1884年7月3日に初めて発表した株価平均に端を発します。

 

ちなみに、この株価平均は幾度かの改定を経て、アメリカ株式市場の代表的指標である現在のダウ工業平均株価となっています。

 

そして、ダウ氏の親友であるS・Aネルソン氏は、その株価平均を用いて市場全体を概観するという方法に着目しました。

 

1903年に、論説の中で「ダウ理論」という言葉を初めて用い、これがテクニカル分析の起源となったのです。

 

なお、その後もこの「ダウ理論」をもとに様々なテクニカル分析が開発・発表されましたが、その開発者や提唱者には金融ジャーナリストや記者が多いようです。

 

※1889年に、アメリカを代表する経済新聞ウォール・ストリート・ジャーナルを創刊しています。

 

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英ポンドの正式名称は何というのですか?

英ポンドの正式名称は、ポンド・スターリング(Pound sterling)といいます。

 

スターリングという呼称の由来には諸説があるのですが、有力な説の1つとしては、12〜13世紀頃に92.5%以上の純銀を含むように鋳造されたものが「スターリング・シルバー」と呼ばれていて、そこから付けられたというものがあります。

 

また、英ポンドは、正式名称の略称として「スターリング」と呼ばれたり、外国為替関係者の間では「ケーブル」と呼ばれることもあります。

 

◆なぜ「ケーブル」と呼ばれるのですか?
「ケーブル」という呼称は、1858年に大西洋間に敷かれた海底ケーブルを通して、ロンドンとニューヨークの間で、ポンドドルの為替レート情報が交わされたことに由来します。

 

◆英ポンドの信用力は?
英ポンドは、かつては最も信用力の高い国際通貨だったのですが、第一次世界大戦を境にして、アメリカ経済がイギリス経済を上回り、英ポンドを中心とする金本位制は崩壊しました。

 

なお、その後、英ポンドに代わり国際通貨として信用力を増してきたのが米ドルで、第二次世界大戦が終結する頃には、米ドルを中心とするブレトン・ウッズ体制(IMF体制)に先進諸国が賛同しました。

 

◆ポンド危機とはどのようなものですか?
以下に述べる1992年のポンド危機は、英ポンドにまつわる比較的最近の出来事といえます。

 

ヨーロッパ諸国では、1989年に欧州共同体(EC:後の欧州連合EU)がEMU(経済通貨同盟)の完成へ向けて動き始め、通貨についてもERM(欧州為替相場メカニズム)により統一通貨の準備を始めていました。

 

その直後の1990年10月、当時ヨーロッパにおいて経済的影響力を持っていたドイツで東西統一が実現したことをきっかけとして、ポーランドやハンガリーなど東欧諸国の共産党政権が次々に崩壊していきました。

 

このとき、旧西ドイツから旧東ドイツへの融資をはじめ、東欧諸国への融資が活発に行われたことにより、ヨーロッパ諸国の金利が高止まりしていました。

 

また、ERMを採用していたイギリスにおいても金利が高めに推移し、その高金利が英ポンド高を誘発していました。これに目を付けたのが、ジョージ・ソロス氏が率いるヘッジファンドでした。

 

彼らは、1992年9月に、徹底的に英ポンド売りを仕掛けたのです。

 

これに対して、BOE(Bank of England:イギリスの中央銀行)も金利を上げたり、介入などを行って対抗策を講じたものの、最後は屈服せざるを得なくなり、その結果、英ポンドは暴落し、ジョージ・ソロス氏は巨額の利益を獲得したのです。

 

これが、有名なポンド危機といわれるものです。

なぜイギリスはユーロに加盟しないのですか?

ポンド危機により、イングランド銀行が、ERMからの脱退も余儀なくされた9月16日が水曜日であったことから、ブラック・ウェンズデー(暗黒の水曜日)と呼ばれています。

 

なお、この苦い経験から、イギリスはいまだにユーロに加盟することを拒んでいます。

 

しかしながら、今後もイギリスがユーロに加盟しないとも限りませんから、引き続き加盟の是非がイギリス国内外で議論されていくと思われます。

 

◆英ポンドは値動きが荒い?
英ポンドは、値動きが荒い通貨であるという特徴があります。これは、通貨の取引高に比べて、市場参加者が少ないからです。

 

市場参加者が少ないと、流動性が下がりますので、ビック・プレーヤーが大きな取引を行ったりすれば、相場への影響が顕著に出る傾向があります。

 

なので、ポン円やポンドドルの取引をする際には、十分な注意が必要です。

 

◆英ポンドと原油先物価格との関係は?
イギリスは、北海油田を有していたり、EU最大級の天然ガスの生産国であることから、英ポンドも商品先物市場の中でも特に原油先物価格動向に影響を受けます。

 

実際、原油高からのインフレ懸念を嫌気して、ドル売り/ユーロ買いと並行して、ドル売り/ポンド買いも同時に進行していました。

 

◆FEDとは?
FED(Federal Reserve Board)というのは、アメリカの中央銀行のことです。

 

中央銀行はその国の金融政策を作成する機関ですが、その金融政策を作成するにあたっては、様々な経済指標(GDP、インフレ率、失業率など)を注視しています。

 

そして、それらの経済指標の見通しを立てて金融政策の舵取りをします。

スイスの特徴は?

1815年のウィーン会議において、スイスは永世中立国であるということが、欧州列強から承認されました。

 

現在でもスイスは永世中立国を維持し、世界で戦争が起こっても中立の立場を明確にしています。

 

◆なぜスイスフランは避難通貨といわれるのですか?
戦争やテロなど非常事態時に、世界中の投資家は資産を安全な場所に移そうとします。

 

その安全な場所として、すなわち避難先としてスイスが選択されることにより、スイスフランが買われるので、スイスフランは「避難通貨」であるといわれるのです。

 

なお、非常事態が収束に向かうにつれ、反対にスイスフランは売られることになります。

 

◆日本円が避難通貨になる?
戦争やテロなど地政学的リスクが発生した場合には、スイスフランが避難通貨の役割を果たします。

 

しかしながら、近年の同時株安や金融不安といった経済的リスクが発生した場合には、日本の円が避難通貨の役割を果たしているようです。

 

実際、チャイナ・ショックやサブプライム問題、ベアスターンズ・ショック、リーマン・ショックでは、いずれもドルとユーロに対して円高が急激に進行しました。

 

◆GDPとは?
GDP(Gross Domestic Product)というのは、国内総生産のことで、その国の経済規模や構造を表します。なお、世界経済の中心であるアメリカのGDPが最も注目されています。

 

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円の発足について

日本人に最もかかわりのある通貨が「円」ですが、この円という通貨は、1853年のペリー来航による開国によって開始された海外との貿易開始に伴い発足したものです。

 

1858年(安政5)年に締結された日米修好通商条約には、日本にとり不利な通貨条約が盛り込まれていました。

 

具体的には、金銀の交換比率が、海外は15対1であったのに対して、およそ日本は5対1だったのです。

 

つまり、外国人は海外では銀貨15枚で金貨1枚にしか交換できなかったものが、日本に銀貨5枚を持ち込めば、金貨1枚に交換できたのです。

 

そして、それを海外で銀貨15枚に交換し、再度日本で金貨に交換することによって、およそ3倍にもなる裁定取引が可能だったのです。

 

これにより、大量の金が日本から海外に流出しました。ちなみに、当時の土佐(現高知県)藩士坂本竜馬※は、この不公平な通貨条約に気が付いており、明治政府の基本方針となった「五箇条のご誓文」のもとになったとされる「船中八策」の8番目に、「金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事」という文言を加え、金銀比率を正そうとしていました。

 

もし、坂本竜馬が暗殺されていなければ、不公平な金銀比率是正に乗り出し、海外との貿易活性化に奔走していたかもしれません。

 

※薩長連合や大政奉還を成し遂げた陰の立役者であるといわれています。

 

◆明治以降について
1868年1月3日に明治新政府が創設されると、1871年(明治4)年には通貨についても、日本で最初の近代的な通貨制度である「新貨条例」が制定されました。

 

また、当時国外で英国ポンドを中心に一般的となっていた金本位制を日本でも採用することとなり、金1円の金含有量が1ドル金貨とほぼ同じであったことから、ドルと円の交換レートは1ドル=1円に定められました。

 

その後、日本は西欧列強と肩を並べる軍事力・経済力を備えるために富国強兵政策を掲げ、円の供給量を増やしていきました。

 

このため、日清戦争(1894〜1895年)が終わった頃には、1ドル=2円となっており、わずか20年で円はドルの半分の価値になってしまったのです。

第一次世界大戦後の円について

日本は第一次世界大戦においては、参戦国でありながら、主戦場はヨーロッパであったことから、実際には関わることはほとんどなく、軍需物資の特需で潤いました。

 

しかしながら、その後1923年の関東大震災や1927年の金融恐慌が生じたため、通貨供給量(マネーサプライ)は増加の一途をたどり、ドル円の実勢レートは1ドル=2.32円にまで円安が進みました。

 

◆再び日本から海外に大量の金が流出
1920年代、英米が旧為替レートで金本位制に復帰していったことから、日本もかつての1ドル=2円のレートで復帰することを要請されました。

 

すると、世界中の投資家は、これに応じた日本を見て、1ドル=2.32円であるうちに大量にドル売り/円買いをしておき、日本が旧レートの1ドル=2円に変更した時点で反対売買のドル買い/円売りをするという、リスクなしに利益確定できる裁定取引を行いました。

 

これにより、再び日本から海外に大量の金が流出したのです。

 

◆世界大恐慌以降について
1929年10月24日にニューヨーク株式市場の株価が突如暴落し、世界大恐慌・ブロック経済※へとなる中で、日本は1930年1月に、金の輸出解禁に踏み切ってしまいました。

 

これにより、また大量の金が日本から流出することとなったのです。

 

ちなみに、第二次世界大戦終了時にアメリカが世界中の金の40%を保有していることが、戦後米ドルが主たる国際通貨になった理由の1つとされていますが、これには日本から流出した金が相当程度貢献していると思われます。

 

※自国から金を流出させない政策でもありました。

第二次世界大戦後の円について

1941年12月8日、真珠湾攻撃から太平洋戦争が始まり、1945年8月15日の終戦の直前まで、ドル円レートは、1939年に定められた1ドル=4.25円のままでした。

 

しかしながら、戦争直後の焼け野原となった日本では、食料や日用雑貨などモノ不足から闇市が横行し、物価が高騰しました。

 

すなわち、貨幣としての円の価値が急激に下がっていったということです。1ドル=4.25円だった円は、2年後の1947年には1ドル=270円にまで円安が加速しました。

 

そして、1949年にブレトン・ウッズ体制のもと、ドル円レートは1ドル=360円という単一為替相場が設定されたのです。

 

◆サンフランシスコ平和条約調印後について
1951年9月8日、サンフランシスコ平和条約に調印することによって、連合国と日本の戦争状態は完全に終結し、翌年には、日本はIMFと世界銀行への加盟を果たしています。

 

また、1955年にはGATTへの加盟も果たし、戦後GHQ管理下であらゆる規制がかけられていた貿易についても、自由化の道を歩むようになっていったのです。

 

◆固定相場制により高度経済成長
日本は、1ドル=360円という固定相場制の恩恵を最大限に活用し、輸出主導による高度経済成長を遂げ、1964年には「先進国クラブ」といわれていたOECDへの加盟も果たしました。

 

なお、同年の日本で開催された東京オリンピックは、戦後日本の復興を世界に印象付けたといわれています。

ドルに対する不信感

アメリカは、第二次世界大戦直後は、圧倒的な経済力・軍事力を誇っていました。

 

しかしながら、ヨーロッパ諸国や日本の経済力の台頭により、アメリカ国外で保有されるドルが多くなったことから、1オンス=35ドルという金で保証されているはずのドルに対する不信感が募るようになっていきました。

 

そして、ベトナム戦争の長期化などもあり、アメリカの財政収支が悪化していったことから、ついに1971年8月15日、アメリカ大統領リチャード・ニクソンにより、「ドルと金の交換停止」が発表されたのです。

 

なお、この発表は、アメリカ議会の承認を得ずに行われるという異例の事態だっただけでなく、戦後の国際経済・通貨体制であったブレトン・ウッズ体制の突然の終焉を意味するものであったことから、「ニクソン・ショック」と呼ばれています。

スミソニアン体制について

その後、スミソニアン体制と呼ばれる新たな固定相場制へと移行しました。

 

しかしながら、アメリカやイギリスの国際収支は一向に改善されることがなく、1973年には先進国中心に変動相場制が開始されました。

 

変動相場制に移行した直後に、オイル・ショックが起きたこともあり、ますます円高/ドル安が加速しました。

 

その後、レーガン大統領の高金利政策によって、円高/ドル安はしばらく解消されていましたが、プラザ合意により再び円高が加速しました。

 

それ以降は、ルービン財務長官が「強いドルはアメリカの国益」政策を断行していた1995〜1998年を除いては、総じて日本円は円高の歴史をたどっているといえます。

 

◆日本円の国際通貨としての役割?
1990年代前半頃までは、しばしば国際通貨としての円の役割が議論されていました。

 

これは、1995年当時、米ドル(59%)、ドイツマルク(18%)に次ぐ第3位の準備通貨に日本円(6.8%)がなっていたからです。

 

しかしながら、2007年のIMFの調査によれば、米ドル(63.9%)、ユーロ(26.5%)、英ポンド(4.7%)、日本円(2.9%)となっており、日本円の国際通貨としての存在感は急激に薄れつつあるといえます。

 

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